当時は、国が少子化対策としてエンゼルプランを発表してから3年目。
世間が「どうも子育てが大変みたいだぞ!!」と、気付きはじめた時代。
でも関心の薄い人たちには、そう言った危機感はまだまだ浸透しておらず、
職場での育児休暇や
妊娠中の業務では、周りの理解が得られずに
本人の就労意欲とは別に、退職に追い込まれる女性も多かった。
独身者で、キャリアを積みたいと思っている人が、
ひそかに「結婚・出産=キャリアを捨てること。」と、思っていたのも否めない。
当然「結婚しない・産まない」を、選択肢とするところとなって行く・・・・。
実際の対応策が、子育て当事者の私たちの生活にまで届いていなかった時代だった。
当時の子育て支援策といえば、
共働きの家庭支援(保育園など)
各種手当て
母子保健としての支援(予防接種や検診など)
であって、
家庭保育をしている専業主婦の育児支援は、
自治体ベースでは、ほとんど着手されていなかったのだ。
私たち母親は、親になって初めて色々な場面で、自分でも思いもよらないような困難さを気づかされた。
不安や、憤り、孤立感、孤独感を抱えていた。
それは、「育児」と言う狭い領域で語れることではなくて
「自分の生き方」から捉えなおしていかないと解決できないような、
大げさに言うと「人権」にまで影響するような、
そんな感じの問題だった。
にもかかわらず
何が問題で
どうしたいのか
どうして欲しいのか
をうまく言語化できず悶々としているような日々のなかで、
目の前に突きつけられている育児に日々追われていた。
「野川ママの会」は、まさにそんな中で生まれた。
子育て当事者が、立ち上げた子育て当事者の為の相互支援の場
これは、全国的にも草分け的な存在だったと思う。
よくある育児サークルと少し違ったのは、サークルで囲ってしまわなかったことだ。
立ち上げた仲間の紹介があれば、誰でも参加できた。
10箇所ぐらいの掲示板に、A4の白黒ポスターを手作りして貼った。
告知は、それだけ・・・。
今のように、携帯も、メールも、パソコンも普及していなかった。
オモチャも自分の子どもの物をそれぞれが持ち寄って、お互いに貸し合って遊んだ。
口コミで、あっという間に広がり10畳ぐらいの部屋では手狭になったため、40畳の部屋に活動を移した。
毎回25〜30組の親子が押し寄せた。
キリン財団の助成を受けて、活動は発展した。
オモチャや、本などを買うことが出来たし、スタッフのスキルアップも図れた。
定期情報紙も発行できた。
この活動が、後の「KOKOプレス⇒KOKOぷらねっと」(小金井子育て情報紙)発行への導入となる。
1997年から11年続いた活動も
2008年3月31日をもって、発展的解消をし、
「Hei!Say! おさんぽカフェ」の活動に統合される。